ファッション業界を支えるメーカーや工場、職人にプロならではのこだわりの技や知識を聞いてみました
内田染工場
コレクションブランドを数多く手がける 東京のど真ん中にある染工場
東京・文京区小石川に、長く培ってきた染めの技術を生かし、コレクションブランドなど幅広いメーカーから信頼を得ている染工場がある。それが内田染工場だ。 付加価値の高い“仕事”が、創業から110年以上続く経営を支えている。
創業は明治 42 年。110年以上の歴 史を持つ染工場が行うのは、すでに縫製済みの衣類を、特殊な染色や脱色法で加工して付加価値を生み出す「製品染め」だ。社長の内田光治氏は言う。
「製品染めは、服を染めることで、色をつけるだけでなく、風合いや服の触り心地といった独特の味わいまで表現できるのが魅力なんですよ」 文京区小石川の古い工場では、大小様々、70 台を超える染色機が稼動する。世界的に知られる日本のコレクションブランドのサンプルや製品を手がけているほか、オリンピックで使われた有名選手のコスチュームを手がけたことも。強いこだわりを持つデザイナーたちが信頼を置く染工場なのだ。もともと呉服の糸染めから始まり、明治、大正期には大きな染工場に成長 した。ところが第二次世界大戦で工場が焼失。戦後、ゼロから再興となり、手がけたのが靴下の染めだった。
「当時、化繊の糸を染めるのは難しかった。そこから、どんな素材でも染められる技術を培っていきました」
高度経済成長とともに、事業は衣服 へと広がり、量販店向けのTシャツな ど、安価な製品の染めの仕事を毎週、万単位のロットで受注するように。バブル期には大きく売り上げを伸ばし、ピークとなったのが、2006年。内田氏が先代から社長を引き継いだ頃だ。とこ ろが、ここから業界構造が大きく変わっていく。加工賃が下がり続け、仕事は海外へと流れていった。
「仕事はじわじわと減っていき、廃業する同業者も少なくありませんでした。 1989年には日本染色連合会の会員企業が770社もあったんです。それが今や75 社に激減している ……」 なぜ内田染工場が生き残れたのか。それは、付加価値の高い仕事、利益率の高い仕事にシフトしていったからだ。
内田染工場社長の内田光治氏。第二次世界大戦で消失した工場を再興させた祖父と父の後を継いで、大学卒業後に入社した。長く現場の仕事を経験し、2005年に社長に就任。「例えば、板に挟んで染めることで、独特のにじみを出しながら文様をつくっていく板締め。こうした技術を、多くの人に知ってもらいたいと思っています。手作業でなければできない染めです」。プリントとは違う独特の味があるこの技法は、コレクショ ンブランドでも使われる。板締めのバンダナ が、ファクトリーブランド「小石川染色工房」 で販売されている。
万単位のロットを一気に機械で染めていくような仕事ではなく、数百枚、数十枚の小ロットの難しい染め。利益率の高い仕事とは、つまりこういった手間がかかる作業だ。昔から、そのようなオー ダーも積極的に引き受けていたことが幸いした。
「初めに会社の主力にしようと考えたのが、グラデーション染めでした。手作業で時間のかかる大変な仕事ですが、これまでの経験と実績がたくさんあったんです。そこから、スプレーを使った染 めや、ハケを使った染め、板締めなど、ほかにはない染色を展開していきました」できることだけやる、ということではなく、やったことのない、できるかどうかわからない仕事にも、積極果敢に挑む。そうやって、多様な技術を少しずつ蓄積していった。
「コレクションブランドとの出合いは、生地屋さんからの紹介でした。ファッショ ン業界は人の流動性の高い業界でもあ りますから、会社を替わられた方が新しい会社から仕事を発注してくださることも。ご縁を大切にしながら、取引先を増やしていきました」
技術だけでなく顧客にとって大きな魅力となったのが、染めに携わる若い職人たちだ。 10 年ほど前から、美術大学やデザイン関係、ファッション関係の専門学校を出た若者たちが、染色をやっ てみたいと続々と入社した。
「ものづくりに実際に携われるところ で働きたい、という思いを持った若い人 たちが増えているようです。実際、縫製 工場や加工場でも、若い人をたくさん 見かけるようになっています」 若者たちは、高齢に差しかかっていた ベテランたちの技術を吸収してくれた。 だがそれだけではなかった。
「もともと洋服が好き、洋服がつくりたいという彼らは感性も鋭いわけです。だから、ブランドのデザイナーや企画の 担当者たちと、とても呼吸が合った。こんなふうにしたらもっとカッコよくなる、ということが感覚的に共有できるんですよ」
息の合う職人がいるとなれば、顧客はまた仕事を依頼したくなる。単に染めの技術を提供するだけでなく、一緒にいいものをつくり出す関係になれたのだ。 取引先は着実に拡大していった。
小ロット高付加価値へのシフトを考えた時、 真っ先に武器になったのが、グラデーション染め。少しずつ染料を染み込ませていき、微妙なグラデーションを見事に仕上げていく。 「染める位置を手作業で少しずつずらし、また、しわで染めむらができないよう、常に動か しながら染めていきます。熟練した技が必要 で、一度に数十枚しかできません」(内田 氏)。角バスと呼ばれるグラデーション専用 設備は、自分たちでつくった。下から上への グラデーションだけでなく、真ん中から外側 に向かうグラデーションなど、様々なデザインが可能になっている。過去の染め色のデータをベースに、自動的に染料を調液することができるコンピュータ・カラー・システ ムマッチング装置も導入。すばやく最適な 色の調合ができるようになった。
現在、内田染工場の売り上げは最盛期の6割ほどだ。かつて主力だった大量 染めはほぼゼロ。ほとんどが高付加価値型の仕事に切り替わっている。新しい仕事の拡大とともに、設備も徐々に増やしていった。コンピュータで色をマッチングさせるシステムも導入した。
13 年からは、染色事業者4社と共同 し、染色の技術をアピールする「 someー zome (そめぞめ)展」を東京ソラマチで 開催。16 年秋には、自社のファクトリーレーベル「小石川染色工房」も立ち上 がった。一時は染めの仕事がなくなってしまうのではないか、という恐れも感じたという内田氏。しかし、今は復活の手応えを強く感じている。「日本のモノづくりをもっともっとア ピールしたいですね。多少値段は高くても、価値を理解してくれる人は間違いなくいる。頑張ってくれている職人のためにも、高い付加価値の仕事をこれからも拡大させていきたいです」
工場の建物は古いが、IT化に早くから取り組み、独自の生産管理システムをつくり上げてきた。どの案件がどこでどのように進んでいるか、すべて一元管理できるシステム が出来上がっている。機械の数が多いため、そのすべてが一覧で見られるよう、4kの縦置きモニターを導入。さらに職人全員にタブレットPCが配付され、業務の進捗状況がタイムリーに把握できるようになっている。工場内は、ドラムタイプの染色機「パド ル」、筒型の「オーバーマイヤー」、ストーンウォッシュのような風合いの出る「ボール ウォッシャー」など、大小様々なマシンがずらり。湯気が立ち上る工場内には、ベテランに交じり、若い職人たちが生き生きと働いている。