ファッション業界を支えるメーカーや工場、職人にプロならではのこだわりの技や知識を聞いてみました
辻洋装店
東京都中野区。都心の静かな住宅街の一角に、知る人ぞ知る縫製工場がある。 服づくりを担っているのは、専門学校を出たばかりの20代から、50代のベテランまで、50人を超える腕利きの職人たち。 それが、世界的に知られる高級婦人服ブランドなどのプレタポルテを専門に手がける辻洋装店だ。 日本に数少なくなった高級服づくりの現場とは。
ドアを開けると「こんにちは!」という気持ちのいい声があちこちから飛んできた。会社のホームページで工場見学を歓迎しているのは、設備、技術、さらには職場の雰囲気の良さにも自信があるからこそ、だろう。
服づくりを熟知したモデリストが工業用パターンを作成し、高級生地の裁断と最終工程を手作業で行う本社と、一日70〜90枚が仕上げられる縫製工場の2拠点は、歩いて5分ほどの距離。いずれも住宅街のど真ん中にあるので、一見すると普通の住宅にしか見えない。
「初めて来られる方は、『ここが縫製工場なんですか?』と驚かれます」
社長の辻庸介氏はそう言って笑うが、国内で高級婦人服の縫製ができる業者を探しているうちに、辻洋装店にたどりつくメーカーは多い。「難易度がとても高いからお願いしたい」と声がかかることも少なくない。
創業は1947年。辻氏の母がオーダーメイド店を開業したことに始まる。やがてヨーロッパから高級既製服、プレタポルテという概念が入ってきた。
「オーダーとプレタポルテでは、つくり方がまったく違います。オーダー服の製法を熟知し、プレタポルテもつくれる技術者は少ない。それができる店があるという評判が広がり、たくさんの依頼が集まるようになったのです」
辻氏は文化服装学院を卒業後、22歳で家業へ。以後、ていねいな仕事を積み重ね、同時に技術を進化させながら、少しずつ業容を広げてきた。しかし、グローバル化の時代を迎え、縫製の仕事はどんどん人件費の安価なアジアへ。かつて70%もあった縫製の国内市場は、今や5%以下。そんななか、日本で地道に腕のいい職人を育て続けてきたのが、辻洋装店だ。“本当にいい服”を知らないメーカーが増える一方、技術を高く評価してくれるメーカーも現れた。あの「ジュン アシダ」もその一つ。いい服にかかわり続けている人たちには、わかるのである。
最新鋭の機械が揃う工場だが、さまざまな工程で職人による手作業も。特に最終工程は、すべて手仕上げだ。「技術力の高い職人の手作業が、最も美しい仕上がりを生むのです」(辻氏)。“すべての面で最高品質の婦人服をつくり続けること”――これが創業以来変わらぬミッションだ。試行錯誤の結果に見えた道は「いい人間がいいものをつくる」だった。技術だけでなく、人間性を磨くことにもこだわる。「素敵な人になると素敵な人と一緒になれる。それが一生の財産になるのです」
そんな技術力の高さに憧れ、門を叩いたのが、20年以上の経験を持つ縫製主任・田尻正子氏。服飾専門学校に通っていた当時、袖を通す機会を得たのが「ジュン アシダ」。この服をつくっている工場で働きたいと辻洋装店を探し出した。
「それまでに着た服とまるで違っていました。今までになく自分のスタイルがよく見えた。すごく感動したんです」
何が違うのか、入社してさらによくわかった。例えば、裁断。高級生地は独自の加湿システムで管理される。裁断は最新鋭の自動裁断機で行われるが、荒断ちして芯張りしてからパイプに半日から一日、寝かせる。生地の反物は巻の外側と内側では巻かれる張力が違うため、内側と外側で一枚の服に仕立てることは絶対にしない。こうした細かなこだわりが、絶妙のフォルムを生み出し、型崩れを簡単に起こさせない。
辻洋装店では、3〜5人の縫製者が班となって、班長の統率のもと、一つの型を完成させる。一人がさまざまな工程を担当するため生産性は落ちるが、これが腕利きの職人を育てる要。服づくりのすべてが学べるのだ。
「これでいい、と自分が思ったものと、求められているものとのレベルがまるで違うのです。最初は、辻の水準を知るところから始まりました」
職人の世界は奧が深い。5年でそこそこ、10年で一人前になれるかどうか。
「でも、簡単じゃないから面白いのです。それこそ20年以上やっていますが、今もってまだまだと思っています」
縫製工程は、一つの型をチームで担当するが、一工程を一人が担い続けることはない。効率は悪いかもしれないが、働き手の成長を優先したのだ。一人ひとりの職人に時間をかけて、服づくりのすべてを学んでもらう仕組みだ。仕事の流れとしてまず、班長が全工程を実際にやってみて、各工程の基準時間を細かく決める。各工程はメンバーに割り当てられ、作業目標を持つ。これが評価にもつながっていく。「入社時に感じたのは、社内が和やかだということ。居心地がとてもいいのです。常に仕事に集中でき、のびのびと働ける職場です」(田尻氏)
同じように「まだまだ」というのが、30年以上の経験を持つモデリスト・里平玲子氏。縫製をするための工業用パターンづくりを担うのが、モデリスト。縫製を5年、裁断を8年、その後、社費で専門学校に通いながら、パターンやCADの技術を学んだ。
「生地、パターン、縫製の仕事を理解しているからこそ、わかるイメージがある。そのイメージに忠実に、縫製のためのパターンを起こしています」
デザイナーが何を求めているか、それを徹底的にイメージしながらつくる。だから、どんな女性に、どんな服を、どう着せたいか、顧客の思いを聞くところから仕事は始まる。
「混紡の生地が当たり前になり、洋服づくりの難易度はますます上がっています。難しい注文に応えられるのが、やはり醍醐味です」
近年、国内アパレル市場が変わり始めている。「純日本製の洋服が欲しい」「高級でいいものを手に入れたい」というユーザーの増加。小売り側からの、「他店では売っていない独自商品をつくりたい」という相談も増えている。
「都内にある工場というアクセスの良さも当社のウリ。難易度の高いご相談はいつでもウエルカムです」(辻氏)
超一流の技術と好立地。その大きな可能性にいち早く気づいたのだろう。辻氏の3人の息子は、全員同社に入った。若い3兄弟が次の時代をどうつくるのか、辻氏も楽しみにしている。
本社にあるモデリストの部隊は、縫製工場全体の司令塔ともいえる位置づけだ。ミリ単位の工業用パターンと縫製仕様が、服づくりを熟知したモデリストによって管理されている。「熟練のベテランにしか洋服がつくれない、というのでは、人は育ちません。辻の仕事のプロセスは、まだ経験の浅い若い人たちでも高級服をつくっていける環境ができないか、という思いから生まれた仕組みでした」(里平氏)。辻の職人たちが手がけた独自のパターンが、“いい服づくり”を知るメーカーをもうならせる見事なフォルムを創り出している
折り紙とは、厚紙で作った型紙のこと。布地に当てて縫い代部分を事前にアイロンで折っていく作業に使われる。この工程を行うことで、特にカーブのある部分が縫いやすく、縫ったあとのカーブの柔らかさにも差が出る。型紙を厚紙で作り、アイロンをかける工程は手間も時間もかかるため、最近では省略する縫製工場も多いが、辻洋装店では仕上がりの美しさにこだわり、この工程を大切にしている。
プレタポルテといえば手作業の縫製工場が多いなか、辻洋装店では積極的に機械化を進めている。たとえばボタン穴かがりや奥まつりといった工程で専用ミシンを導入。それぞれ手縫いと同じクオリティを保つための研究を重ね、独自の仕様のミシンを開発。クオリティだけでなく、仕上がりの早さや均一の仕上がりを実現している。
縫い代部分の一部をカットし、縫い代の厚みの段差をなめらかにする作業。表地への縫い代の厚みの影響を減らし、縫い目の布地をしなやかにするため、縫い代ひとつひとつカットを施す。
婦人用ジャケットなどの肩の丸みを作るいせ込み。辻洋装店では、いせ込み用ミシンで美しいギャザーを作っていく。身頃に縫い付けたとき、まるで最初から丸い布だったようになめらかな丸みを作るのが職人の技。
「高級婦人服で一番大切なことは、柔らかい丸みを表現すること」と辻氏。縫製工程では1回縫い合わせるたびに、生地と縫い目のくせをアイロンできれいに整え、布地の美しい流れを作る「くせ取り」の工程はかかせない。丁寧なくせ取りの積み重ねから全体の美しいフォルムができあがっていく