ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー
生まれ育ったのは埼玉県の行田市です。家が川の近くにあったので、庭にある木の切れ端で舟をつくって川に浮かべたり、拳銃をつくったり、絵を描いたりして遊んでいた。とにかく、何かをつくることが好きな子どもでした。
服に関心を持ち始めたのは、小学校4年生の頃。雑誌『anan』や『メンズクラブ』をよく読んでいて、当時のIVY特集号を学校に持っていき、友達に「こういう服はこういう時に、こういうルールで着るんだ」と解説していたほど(笑)。
小学校高学年になると、新宿まで出かけていき、自分で服を選んで買うようになりました。だから、地元ではかなり目立っていたと思います。
中学、高校は制服でしたが、普段着はやはり流行最先端の服を着ていました。でも、自分がいくら最先端の服を着ていても、お金持ちの息子が真似して買うので、すぐに追いつかれてしまうのが悔しかった。
ファッションデザイナーという職業を知ったのは、高校に入学してすぐ。『anan』で、三宅一生さんが麻素材のベージュのジャンプスーツを着て対談している写真を見て、「変わったスタイルだけど、かっこいい! この人の職業は何だろう?」と調べ、ファッションデザイナーという仕事があることや、どうやってその仕事に就くのかを知りました。そして、「友達とのお洒落競争は、流行を追いかけていただけ。自分がファッションデザイナーになってオリジナルの服をつくれば、友達には絶対に追いつかれない」と気づいた。こうして、デザイナーという職業を意識するようになりました。
その後、たまたま本屋で手に取った『装苑』を見ていたら、装苑賞候補の中に菱沼良樹君の作品があった。当時の彼は18歳で、私のたった1歳年上。
「こんなに若い人が活躍しているのなら、うかうかしていられない」とすぐにデザイン画を描いて装苑賞に応募しました。高校3年の時です。図画工作は子供の頃から得意科目。見様見真似でデザイン画を描いて応募したら、いきなり第一次審査を通過し、実物の服をつくることになった。ところが当然、服など縫ったことがないし、レディースなんてわからない。素材選びも縫製も自己流で作品を送りましたが、公開審査は見事に最下位(笑)。その後も、とにかく装苑賞をとりたい一心で、毎月デザイン画を200枚ぐらい描いて、応募し続けていました。
高校卒業後は、東京デザイナー学院に進学。グラフィックデザインがメインの学校だとは知っていましたが、天邪鬼な私は「服飾専門学校に入学して装苑賞を取るのはつまらない。違う角度から挑戦したい」と考えました。でも、結局一年半ほどで学校は辞めてしまい、浅草橋の小さなメーカーでパターンを引くアルバイトをしながら、装苑賞への応募を続けていました。5、6回候補作には選ばれましたが、奇抜すぎたのか上位には入れず、「これで最後にしよう」と応募した作品で、ようやく受賞が決まったんですよ。
ツムラコウスケ津村耕佑
1959年 埼玉県行田市に、妹2人の3人兄弟の長男として生まれる
1978年 埼玉県立深谷商業高校を卒業後、東京デザイナーズ学院に入学
1983年 三宅デザイン事務所に入社し、クリエイションスタッフとなる
1992年 造形作家としても活動。個展「Regard de Meduse」(青山スパイラル)
1994年 自身のファッションブランド『KOSUKE TSUMURA』 『FINAL HOME』をスタート。パリコレクションに初参加
1997年 ロンドンファッションウィークに初参加
2000年 展覧会「ヴェネツィア・ビンナーレ第7回建築展」(イタリア)
2005年 展覧会「愛・地球博ファッションショー」(愛知)
2008年 武蔵野美術大学 空間演出デザイン学科教授に着任。
「THISPLAY!」展(21_21DESIGN SITE)アートディレクション
2011年 軽井沢千住博美術館、代官山蔦屋のユニホームをデザイン
2013年 個展「フィロソフィカル ファッション」(金沢21世紀美術館)
2015年 独立し、フリーデザイナーとなる。
TRANS ARTS TOKYO 津村 耕佑プログラム「 ビルを着る」
受賞歴
1982年 第52回装苑賞受賞
1992年 第21回現代日本美術展準大賞受賞
1994年 第12回毎日ファッション大賞新人賞・資生堂奨励賞受賞
2001年 織部賞受賞