ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー
70年、大楠祐二と株式会社ビギを設立し、注文服の仕事から既成服のリアルな服づくりの事業へと転換しました。僕は会長となってデザインと制作を担当し、大楠が社長として営業などのマネジメント全般を担当。妻の稲葉賀惠もアシスタントに加わり、3人でのスタートでした。「自分と近い年代に向けた服を自由につくれる」ことが本当にうれしかった。どんどんアイデアがあふれてきて、最初の1年で、通常は年に2回の展示会を10回も開催したんですよ。つくってすぐにバイヤーに見せて売る、の繰り返しです。これは経験した人しかわからないと思いますが、ハードすぎて1年がものすごく長く感じられましたね。海外のムーブメントをうまくとらえ、当時の日本に合うリアルな服をデザインできたことがよかったのでしょう。順調に売り上げを伸ばし、開業時の借金はすぐに返済できました。賀惠とはアトリエ時代からお互いの仕事に口出ししたことはなかったし、会社でも家庭でも一緒だったのでうまくいっていました。ところがビギ時代の僕は、仕事を終えると遊びに行って朝方帰宅し、そのまま仕事に行くというデタラメな毎日。妻から「結婚生活に向いてない」と言われ、離婚しました。でも、あの頃は人と会って刺激を受け、仕事も広がっていった。だから、僕の中では遊びも重要な時間だったんだけどなぁ(笑)。
レディースのデザインからメンズにシフトしたのは、〝女性に着てほしい服〞という男のエゴが大きくなり、女性自身が着たいと思える服から離れていく気がしたから。それで75年に、メンズラインを独立させて「メンズ・ビギ」を設立。社長に就任しました。「メンズ・ビギ」では、新たな販路、市場を開拓しようと考え、閃いたのが割賦販売を始めた丸井への出店です。当時、服を分割払いで売るという手法は目新しく、業界内では「そんなやり方でファッションが育つわけがない」と、否定的な意見が多かったんですよ。でも、出店してみると「メンズ・ビギ」には合っていた。売れ行きは予想以上で、丸井の店舗は重要な営業基盤となり、また、この成功が全国展開への足がかりになりました。当時、デザインと同時に経営も見ていたので、事業を成功させるために心に焦りがあったのだと思います。「メンズ・ビギ」設立2年目に、パリ進出を思い立ち、「メンズ・ビギヨーロッパ」を設立。日本の事業基盤がまだ不安定にもかかわらず、経営をアシスタントデザイナーに任せ、僕はパリに住居を構え、世界への挑戦を始めた。ところが、2年後に日本サイドの経営が危ないことがわかり、どちらかを捨てる決断を迫られた……。結果、79年にパリを撤退し、東京に戻って、国内事業の経営とデザイン活動を再開しました。負債は1億円近くありましたが、81年のショーが評判となって盛り返し、なんとか経営を立て直すことができました。 しかし、一人で経営を見ながらデザイン活動を行い、社員の悩みにも対応する大変さに自分の限界を痛感した僕は、経営を古巣のビギに託し、デザインに専念することにしました。 それでも、モヤモヤとした思いが消えなかったんですよ。40歳を過ぎ、そろそろ次のステップを考える時期なのに、目の前の現実に追われて、何の準備もできていない自分。モヤモヤの原因は、将来への焦りです。
きくち たけお菊池 武夫
1939年 5月25日、東京千代田区生まれ
1959年 文化学院美術科に入学
1961年 原のぶ子アカデミー洋裁学院に入学
1962年 原のぶ子アカデミー洋裁学院を卒業。ルリ落合のアトリエで、佐久間良子の映画衣装を手がけた後、銀座のクチュリエ2店(マダムミキで4カ月、ミモザで6カ月)で女性の注文服制作を経験
1963年 稲葉賀惠と結婚
1964年 自宅にアトリエを構え、稲葉賀惠と2人で注文服を手がける
1969年 ヨーロッパとアメリカを1人で2カ月間旅行する1970年 大楠祐二と株式会社ビギを設立。表参道に1号店をオープン
1975年 株式会社メンズ・ビギを設立。青山キラー通りに1号店を出店
1978年 パリに株式会社メンズ・ビギヨーロッパを設立
1984年 メンズ・ビギを退社。ワールドに移籍し、タケオキクチを発表
1986年 自らプロデュースした複合商業施設TKビルディングを西麻布にオープン
1996年 ウォン・カーウァイ監督、浅野忠信主演の短編映画『wkw/tk/1996@7'55"hk.net』をプロデュース
2004年 タケオキクチのクリエイティブディレクターのポストを、後進に引き継ぐ
2005年 40歳以上をターゲットとしたブランド、40CARATS&525を発表
2012年 タケオキクチのクリエイティブディレクターに復帰
2014年 「30周年記念コラボレーションアイテム」を展開