ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー
良品計画から白羽の矢が立ったのは、僕がまだ日本の手垢がついていないデザイナーだったからでしょう。要求されたのは、ズバリ〝売れる服〞。色や型の様々な制約がある中で、僕なりの感性と解釈を持って、「無印良品」をデザインしていく。今までとは違う考え方でしたが、そこに面白さを感じました。
ポルトガルでのニット生産など、日本ではまだ誰も手がけていなかった挑戦も、提案するとすぐにOKが出た。当時は、多くのニットを中国で生産していましたが、日本における中国の存在は、フランスにおけるポルトガル。ポルトガルに良質の糸や工場があることを、パリ時代から知っていたのです。
デザイナーが企業のデザインを請け負うことは当時の日本ではまだ少数でしたが、僕にはまったく抵抗はありませんでした。実はヨーロッパでは珍しくないんですよ。その一人がアズディン・アライア。彼は偉大なクチュリエですが、フランスの激安ショップTATI(タチ)の限定デザインも手がけています。
一方、自分のブランドでは、資材シリーズの売れる程度は知れていると自覚していました。だったら次は、「コンセプトはさておき〝時代に合ったかっこいい服〞をつくろう」と決めた。そして、日本のファッションリーダーである若者に向けたブランド「NOCONCEPTBUT GOOD SENSE」を発表。狙いは的中し、雑誌などで多く取り上げられ、人気ブランドに成長させることができました。
パリ・コレクションに正式スケジュールで参加するためには、パリコレを主催する団体サンディカへのプレゼンテーションで認められる必要があります。そこでは展示会を継続的にやっていくブランドかどうかを問われます。実際、パリコレというのは誰でもやろうと思えばできるんです。だけどそれを続けることが一番難しい。1、2シーズンやって消えていくブランドもたくさんありました。パリコレはお金もかかるし、準備も大変です。知名度のないブランドは、パリコレ期間中でもバイヤーの少ない最初や最後の日程しかもらえない。僕のブランドも初めて決まったショーの日程は初日の午前中でした。シーズンを重ねて、エルメスやクロエと同じ日程をもらえるようになった。やはり続けることは信用をつくる上でもとても重要です。
パリコレで勝負していくためには〝強いもの、見たこともないもの〞が必要だと考えていました。資材シリーズの頃から実験的な服づくりをしていましたが、パリコレでも新しい試みを実現してくれる工場を世界中から探して服をつくっていましたね。
◎Azzedine Alaia(アズディン・アライア)/1980年代、ボディ・コンシャス・モードをつくったデザイナー。女性の体の形に沿ったスタイルは現在
でも世界中のセレブリティに愛され、ミシェル・オバマ、レディ・ガガらの服も手掛ける
◎TATI(タチ)/フランスで展開する、服・雑貨・アクセサリーの格安ショップ
ながさわ よういち永澤陽一
1957年 京都に一人っ子として生まれる
1978年 三重県の日生学園高等学校(現:桜丘高等学校)を卒業
1980年 名古屋モード学園を卒業後、渡仏。TOKIO KUMAGAI ABC DESIGN PARISに入社
1988年 「TOKIO KUMAGAI」のチーフデザイナーとして、東京コレクションに参加
1991年 日本に帰国して、株式会社スチルを設立
1992年 「YOICHI NAGASAWA COLLECTION」を発表。同年、「無印良品」の衣料品ディレクターに就任
1993年 若者を対象とした「 NO CONCEPT BUT GOOD SENSE」を発表
1996年 97年春夏パリ・コレクションに初参加
1997年 日本アジア航空(JAA)のユニフォームをデザイン
2000年 イオン株式会社の「SELF + SERVICE」を総合プロデュース
2002年 スポーツブランド「NEW BALANCE」企画・プロデュース
2004年 東京地下鉄株式会社(東京メトロ)のユニフォームをデザイン
2005年 金沢美術工芸大学大学院ファッションデザインコースの専任教授に就任。エース株式会社のバッグブランド「Tabi」をプロデュース
2006年 イオン株式会社のTOPVALU衣料品部門をプロデュース
2007年 京都の町屋を改造したセレクトショップ「SHINA」をオープン
受賞歴
1994年 毎日ファッション大賞新人賞
2004年 毎日ファッション大賞受賞