ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー
プロ野球選手だった父は、1年の半分以上は家にいませんでしたから、一緒にキャッチボールをした記憶もありませんし、僕は野球選手に憧れることもなかった。むしろ「スポーツができて当たり前」と思われることが嫌でした。それよりも絵を描くことが好きな子供で、花や蝶、バンビなど、ガーリーな絵をよく描いていた。当時から、僕のテイストは変わりませんね(笑)。
母がつくってくれたお気に入りの服をよく着ていました。今も鮮明に覚えているのは、黒地に白のバンビが編み込まれた手編みのニットのベストと、襟に汽車が刺繍してあるシャツ。父の中国人の友人からもらった緑色のチャイナ風の綿入れも、大好きでした。
中学生になると、自分が選んだ服を買ってもらうようになった。初めて自分でお金を出して買ったのは、確か中学3年の時。原宿の交差点にあったDOMONで買った、熊谷登喜夫さんがデザインした服だったと思います。
原宿という場所柄、父親がグラフィックデザイナーという友達がいたり、少女漫画を読んで〝ファッションデザイナー〟という職業があることも、すでに知っていました。中学校3年の頃には、「いつかモノをつくる仕事をしたい」と思うようになっていましたね。それに、会社員の家庭ではなかったので、昔から「自分の力で稼げる人にならなければ」と思っていたのです。そして、「自分は絵を描くことや、何かをつくる能力に長けているみたいだから、その道がいいな」と漠然と考えていました。
文化服装学院を選んだのは、髙田賢三さんが卒業した学校だから。中学校の時に、テレビで彼のショーを見てすっかり感化されていたのです。
「何か話がある人は、いつでも学院長室にいらっしゃい」という入学式での小池千枝学院長のあいさつを真に受け、翌日に学院長を訪ね「僕は将来パリの賢三さんのアトリエで働きたいので、よろしくお願いします」と直談判に行ったほどですから(笑)。
初めて自分で服をつくったのは、入学してからです。縫製やパターン起こしなど、ピシッと合わせる細かい作業は不得意だし、手先も不器用。でも、そんな苦手なことも含めて、何もかも楽しくて、一心に取り組んでいました。あの日々があったからこそ、今があるのだと思います。
在学中の3年間は、トップを取りたい一心で、あらゆるコンテストに挑戦しました。装苑賞こそ逃しましたが、一般のコンテストではけっこう入賞できた。印象に残っているのは、2年生の時に応募したフジサンケイグループ主催のスポーツウエアのコンテスト。グランプリと審査員特別賞をダブル受賞し、かなりの賞金をいただきましたよ。学生時代は、純粋に服をつくることが楽しくて、文字どおり夢中になっていましたね。
まるやま けいた丸山 敬太
1965年 3月4日、東京都渋谷区生まれ
1971年 神宮前小学校に入学。卒業後、原宿中学校に入学
1979年 豊島区にある本郷高等学校グラフィックデザイン科に入学
1983年 文化服装学院ファッション工科・アパレルデザイン科に入学
1986年 文化服装学院を卒業後、
ビギグループの株式会社キャトルセゾンに入社
1990年 退職して、フリーランスデザイナーとして活動
1991年 DREAMS COME TRUEと出会い、
コスチュームデザインを手がける
1993年 自身のブランド「ケイタ マルヤマ トウキョウ パリ
(KEITA MARUYAMA TOKYO PARIS)」を設立
1994年 1994-1995年秋冬東京コレクションデビュー。
メンズ・レディースの両ラインを発表。K2Mインターナショナルを設立
1997年 1998年春夏パリコレクションにデビュー
1999年 「KEITA MARUYAMAキモノ」をスタート
2005年 パリに初店舗をオープン。「KEITA MARUYAMA Relax」を発表
2008年 故・藤巻幸夫氏を代表取締役に、株式会社テトラスターを設立
2009年 「Wedding Dress KEITA MARUYAMA」を発表
2012年 ワンランク上の新ブランド「KEITA MARUYAMA」を発表
2013年 日本航空の客室乗務員、地上接客部門が着用する制服をデザイン
2014年 株式会社三越伊勢丹ホールディングスと包括的な提携を発表
受賞歴
1996年 毎日ファッション大賞新人賞、資生堂奨励賞
1998年 FCEデザイナー賞