ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー
初めての海外で、しかも本場である西洋の人たちと戦うわけでしょう。まともにいったら絶対に勝てません。彼らに勝つ方法は、日本人である私たちが歩いてきた歴史を知ること、日本独特の美の極みを武器にすることだと思いました。なぜそこに到達したかというと、3歳の時から祖父に植え付けられた美意識、これが非常に大きい。その美意識を形にしたものをローマで発表したのです。
簡単にいうと、布をたくさんカットして造形するのではなく、着物のように布一枚を膨らませたり持ち上げたりして、立体的に表現した服です。会場中が総立ちになって拍手が鳴り止まなかった時は、鳥肌が立つほど感動しました。長いデザイナー生活のなかでも、自分らしいもの、成功できるものを寝ても覚めても追求したという意味では、あのコレクションが頂点だったと思います。命懸けで何かしようと思うと、人間はものすごい力が発揮できることを学んだ体験でした。
パリコレに参加するちょっと前に、緑深い芦屋の山中に安藤忠雄設計の家を建てました。これもデザインのため。日本の四季の素晴らしさを体得しないと本当のデザインはできない、と思ったから。実際、この家を建てた頃から、自分の願うことが念力のようにすべて形になっていきました。家の周りには猪や狐がいる。春夏秋冬の全部が身近にある。日本人はこういう四季のなかで独自の美を形にしてきたんだと、頭ではなく身体で感じられる環境です。それでいて、家の中は安藤忠雄らしいコンクリートの無機質な空間。これがまた、無彩色であるからこそ、いろんなものを想像させてくれるんです。
ただ、税理士には自殺行為だと言われましたね。貯蓄が10000万円しかないのに1億円の家を建てたんですから、まあ当然です。何年たってもローンが減りませんし、暖房装置にお金がかけられないから寒くて、冬は家の中でもスキーウエアを着ていたぐらい。家の中は戦いですよ。でも、デザイナーは戦いがあったほうがいいと思う。ほかほかとしたなかで何かやろうとしても無理。苦しい環境でこそ突き抜けた力が養われる。リスクを取ってこそ、自分以上の力を出せる。いわば安藤忠雄の家を建てることで、その後の成功のために最高のリスクを取ったわけです。私にはパリ・コレクションに出て、パリにお店を出すという大きな目的があった。その実現まで、どんなことがあっても、へこたれるわけにはいかなかったんです。
コシノ ヒロココシノヒロコ
1937年 大阪・岸和田市に生まれる
1961年 文化服装学院を卒業後、銀座小松ストアー(現ギンザコマツ)
ヤングレディースコーナー専属デザイナーに
1964年 大阪心斎橋にオートクチュール・アトリエを開設
1978年 ローマ、アルタ・モーダに日本人として初めて参加
1982年 パリ・プレタポルテコレクションに参加。以後年2回参加
1988年 株式会社ヒロココシノデザインオフィス設立、
代表取締役社長に就任
1997年 大阪コレクションにて、大阪府知事、大阪市長をモデルに迎え
ヒロココシノ・オム・コレクションを発表。
ブランド設立15周年、デザイナー創作40周年を迎える
2002年 「仄かと閃き」展と題した墨絵の個展を東京、札幌、小倉にて開催
2004年 芦屋市からの要請を受け、ファッションをはじめ書画、絵画など
これまでの創作活動の集大成として「コシノヒロコ展」を
芦屋市立美術博物館にて開催
2007年 デザイナー生活50周年を迎える。中国上海国際芸術祭に参加
2008年 株式会社ヒロココシノデザインオフィスから
株式会社ヒロココシノに社名変更
2009年 15年以上のブランクを経て、パリ・コレクションに再び参加。
2012年 アーティスト小篠弘子の作品を発表する場として、
KHギャラリー銀座をオープン
2013年 芦屋の自宅をギャラリーに改装し、KHギャラリー芦屋としてオープン
2014年 パリの老舗画廊ギャルリー・ニコラ・ドゥマンにて絵画のみの個展開催
受賞歴
1957年 N.D.C(. 日本デザイナー協会)デザインコンクール第1位受賞
1997年 第15回毎日ファッション大賞受賞