ファッション業界の最前線で活躍するトップクリエイターの方々にインタビュー
1945年生まれ、神奈川県の鎌倉育ち。幼稚園から高校までは湘南白百合学園に通いました。若い時にイギリス留学を経験し、服飾評論家となった父は、ファッションに精通していて、行儀作法にとても厳しい人でした。
東京オリンピックを自宅のテレビで見ていた時、「日本選手団が真っ赤なブレザーで登場します」というアナウンスが流れました。
私が「赤いブレザーなんて嫌だわ」と言うと、父が「ブレザーの語源はブレイズ、〝炎〞という意味。
ケンブリッジ大学のボートチームが初めて着たのが赤で、だからブレザーは赤が基本なんだ」と教えてくれたことを覚えています。
幼稚園から高校までセーラー服が制服でした。
中学に上がる時、お洒落好きだった母は近所で注文したセーラー服の襟の立ち具合が気に入らなかったようで、「長く着るものなのだから」と、東京の学生服専門店まで一緒に出かけ、特別に仕立ててくれたのです。そのおかげで、同じように見えるセーラー服でも、仕立ての違いで微妙に雰囲気が変わるのがわかるようになりました。
父の書斎にあった『スクリーン』『スタイル』『GQ』などの雑誌を見るのが好きでしたね。
父は、「自分より上の人に向けたものを見なさい」と、中学生の時はアメリカの『Seventeen』を、17歳になるとフランスの『20ans(ヴァンタン)』を買ってきてくれました。雑誌が好きになったのは、父の影響が大きいと思っています。
また、雑誌の中で素敵な服を見つけると、手先が器用な母に頼んでつくってもらったり、よそ行きの服は近所の仕立屋でオーダーしてくれたり。
その頃につくってもらった服は、今でも何着か持っています。
高校時代に父が買ってきてくれた、ブラックウォッチの生地で仕立てたタータンチェックのブレザーも思い出深い服です。
読書も大好きな子どもでした。中学の選択科目でフランス語をとっていて、様々な翻訳書を読むうち、「私はフランス文学が好きなんだ」と自覚し、大学はフランス文学科に進学します。これが間違いでしたね。文学を学ぶには、まずその国の言葉を理解しないと。フランス語学科に進むべきでした(笑)。
母からは「一人でも生きていける何かを身につけなさい」と言われていました。卒業後ももう少しフランス語を勉強したかったので、日仏学院に通い始めました。そうやって学院に通いつつ、直訳のアルバイトをしていた私に、雑誌のライターをしていた知人が、「平凡出版(現マガジンハウス)がフランスの『ELLE』と提携し、初の女性誌を出す。資料整理のアルバイトを探しているのでやってみない?」と。
編集長を紹介してもらい、面接に行くと、その場で採用に。69年12月のことでした。
ハラ ユミコ原 由美子
1945年 誕生。神奈川県鎌倉市で育つ
1967年 慶應義塾大学文学部仏文学科を卒業後、日仏学院に通う
1969年 『ELLE』の整理係として、『アンアン』創刊準備に携わる
1972年 『アンアン』50号で初めてスタイリストの仕事に携わる
1973年 初の海外ロケ。パリコレを取材(~2011年)
1974年 『婦人公論』巻頭のファッションページの連載を担当
1977年 『クロワッサン』の創刊メンバーに加わる
1982年 『エルジャポン』(平凡出版)創刊号より1年間、ファッションディレクターを務める
1986年 『マリ・クレール日本版』でシャネルをはじめファッションページをスタイリング
1988年 『Hanako』創刊号をはじめファッションページをスタイリング
1991年 毎日ファッション大賞の選考委員(2012年まで)
1993年 『エスクァイヤ日本版』の連載
「Weekend Gentleman原由美子の〈週末の紳士たちへ〉」スタイリング
1997年 JAS(日本エアシステム)の新ユニフォームの企画を担当
2002年 『和樂』の連載「和の心で着るモード」スタイリング
2004年 「日本クリエイション大賞」の選考委員(~現在)
2010年 『フィガロジャポン』で「きもの上手」連載(2015年に書籍化)
2012年 著書『原由美子の仕事 1970→』(ブックマン社)を出版
AWARD HISTORY
1995年 ミモザ賞
2012年 第54回FECJ特別賞
2014年 第32回毎日ファッション大賞 鯨岡阿美子賞